ショウビジネス界で俳優・歌手・司会者・ダンサー・コメディアン等を兼任している芸能人をアメリカではエンタティナーと称する。
フレッド・アステア、ビング・クロスビー、ジーン・ケリー、ダニー・ケイ、フランク・シナトラがその代表だが、私はディーン・マーティンが一番好きだ。知名度と活躍度が高いがアカデミー賞、グラミー賞、エミー賞等の受賞歴は皆無。日本の著名人で彼を評価している人はイラストレーターの和田誠さんしかいない。
映画には50本以上出演しているが、過小評価なのは真摯に取り組んだ仕事が少ないからだろう。「リオ・ブラボー」等数本の西部劇と「大空港」の様に巨匠監督や大物と共演した時はいい役者に見えるが、「底抜け」シリーズやシナトラ一家の時は気楽なエンタティナーの余興と見なされてしまう。
ハワード・ホークス監督は“彼は映画俳優としてもっと成功しても良かった、しかし人生をふらふらしている男でもある。追い詰められなければ自分のショウのリハーサルさえしない。早く切り上げてゴルフの練習に行きたいのだ”と言い。
作曲家ネルソン・リドルは“歌は上手なのですが、当人はその事に全く気付いていません。彼は自分の事を真剣に考えていません。まして他人が自分をどう評価しているかなど眼中にありません。”と言う。
この二人の証言がディノの全てを語っているように思える。しかし同時に“お気楽マン”を演じ続けたからこそディノの存在価値があるのだろう。実際に映画・レコード・テレビ・ラスベガスの全てを物にした芸人はディノしかいない。
笑いは右脳を活性化させ老化防止や若年ボケ防止に有効であるらしい。私は限定された喜劇映画は好きだ。何故かサイレント喜劇は好きじゃない。フランス喜劇は理解できない。日本の喜劇は≪泣き笑い劇≫が多くどうも湿っぽくなって嫌だ、更に題名に『喜劇…』と付く映画で笑えたためしが無い。又アメリカでも『おかしな』という邦題名で笑えた経験はない。よくアメリカ喜劇は日本人には理解出来ない、受けないと言われるが、正確には1970年(シラケ時代)以降世界的に通用する喜劇人がアメリカから育ってないか居なくなった事が原因だと思う。ネタも使い尽くされ、シモネタと早口トークのテレビ芸人の台頭はアメリカでしか通用しない。
テレビだがスマートで時にはキワドイ会話のある連続ドラマも結構好きである。「ショムニ」「トリック」「ごくせん」最近では「ハケンの品格」が毎回楽しい。
コントは小学生時のクレージー・キャッツから始まり中高生時のザ・ドリフターズ、最近では「SMAP×SMAP」のコントで大笑い。
SMAPはメンバーの役割分担が明確だから良いのだろう。特に香取慎吾の笑いのセンスはずば抜けている。夏公開の「西遊記」が楽しみだ。
しかし笑いに飢えた私だが、テレビの“バラエティ”と称する番組は大嫌いだ。笑いの取れない無能な芸人を笑いものにしたり、自慢話、苦労談、身の上話にいちいちツッコミをいれたり、熱湯風呂や氷水プールに突き落としたり、更に馬鹿でかい文字で≪テロップ≫を入れて視聴者に笑いを強要したり全く気分が悪くなる。≪テロップ≫とは能無し芸人救済対策だと思う。
ショウビジネスに於ける“バラエティ”とは歌・踊り・コント・笑劇と全て揃った物を指すが、最近では
“バ”=馬鹿でもorバラしネタでも
“ラ”=落第生芸人でもor楽な仕事でも
“エ”=ええかげんな芸人でもorエロおやじでも
“ティ”=ティーンエイジでも人脈があって羞恥心なくて減らず口を叩ければ誰でも参加できます。という解釈だと判断しています。
従って悪い左脳を更に悪化させるこの手の番組は見ません。
映画は誰の手柄か?黒澤明、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックやビリー・ワイルダーの様に自ら脚本や製作を兼ねた監督なら確かに【映画は監督の功績】と言えるだろう。だが昔の評論家は『全ての映画は監督の功績だ』と言い切っていた人が多かった。例えば監督自身が“製作を兼ねたスターに安い金でこき使われた”とか“一切自分を抑えた映画”とコメントしているにもかかわらず評論家は『主演者の起用は監督の英断だ!』『さすが一流の映画作家のメッセージが伝わって来る!!』などと自分の思い込みを文章にしてしまっている。監督を映画の創造者=芸術家=作家と見なすのはヨーロッパ諸国と日本だろう。アメリカで監督と言えば作家というより≪芝居と風景の撮影の現場監督≫と言った方が相応しいのだと思う。映画は総合芸術とも云われている。この考えには賛成だ内容は退屈でも音楽は最高の作品、撮影の美しい作品、地味なキャストだが力強い作品、豪華キャストだが中身の薄い作品3時間以上でも短く感じる作品、90分弱でも冗長な作品…すべて総合の芸術だから監督一人の手柄でもなければ責任でもない。
永年私が心の中でイメージしていても中々言葉に発せられなかった哲学『人は見た目が9割』を堂々本の題名に出来た竹内一郎氏に感謝と敬意を表したい。映画ファンなどは正にこの通りではないか!私の独断と偏見で同世代の男優を例にとるとクリント・イーストウッドやショーン・コネリーの活躍は素直に凄いと感動するが、GHやRDには全くそう思えない。他にもロバート・レッドフォードやダスティン・ホフマンなら良いがJNやAHは敬遠してしまう。あの淀川長治さんもイングリッド・バーグマンの相手役男優について“若い頃はゲーリー・クーパーやケーリー・グラント等いい男が相手役だったけど、晩年はアンソニー・クインやウォルター・マッソーと共演し我々ファンは≪イングリッド何を血迷った??!!≫と嘆いたものです”と言っていた。この好き嫌いの激しさは映画ファンとして恥ずべき事だろうか?私は我慢して嫌いな俳優の出演作を観ようとは思わない。まして嫌いな映画を悪い点数で酷評してその映画を支持するファンに喧嘩を売る人の心理が理解出来ない。
「大脱走」DVD特典映像の話。脚本が未完成でクランクインした事と自分の役柄がヒーローでは無い事に怒ったスティーヴ・マックイーンが撮影現場から逃避したエピソードが紹介され、マックイーンがトップロール主演の割りに通算出演時間が短く独房シーン(まとめ撮りが出切る)が多い理由に納得できたが、“マックイーンを現場復帰に説得したのは我々だ”とジェームズ・ガーナーとジェームズ・コバーンがそれぞれ別々のインタビューで口裏を合わせたように自慢げに語っていた事に私は非常に不快感を覚えた。日本の葬式は生き残った奴らの宴会だと思うが、故人を偲ぶ席で必ず“あいつは俺が面倒を見てやった”とか“あいつは俺の事を頼りにしていた”と自慢する輩が必ず一人や二人は存在する。アメリカにも日本と同じ人種はいるのだなと痛感した。何はともあれ今「大脱走」はDVD版完全版で見る事が出切る。しかし1963年当時映画館で見る事が出来た人たちが羨ましい。